2009年4月アーカイブ

ゴールデンウィーク(GW)早々、次々報道されるインフルエンザのニュースが気になるところですね。
『連山』読者はもう、対策を済ませていることでしょう。
先日は、GW初日という訳ではありませんが、久しぶりにコンサートを観に行きました。

ドラムラインライブ DRUMLINE LIVE


柏崎原発事故でもそうでしたが、23年前のチェルノブイリ原発事故発生は秘密とされていました。
4月26日に事故発生(日本時間同日午前6時23分)。日本では、5月3日に雨水中から放射性物質が確認されました。
23年目の今年も、各地では講演会など行われております。

原子力資料情報室(CNIC) - チェルノブイリ原発事故から23年 4/25柏崎刈羽原発運転再開NO!
チェルノブイリ子ども基金 最新情報
inner jukebox: 2009年4月チェルノブイリ23周年救援キャンペーン
【関連】チェルノブイリ原発被爆者、ナターシャ・グジー(バンドゥーラ奏者)の情報


思春期のころから20歳代、長い方だと30歳代頃まで悩む肌トラブルと言えば、ニキビ
幸い、重度にはなりませんでしたが、ニキビは洗ってもなかなか一掃されず。私も悩んでいたうちの一人でした。

籾から発芽しました

| | コメント(0) | トラックバック(0)
購入した玄米に混じっていた籾が、本当に発芽するのか不安でした。実際やってみるとちゃんと芽が出てきて、少し感動しました。
(参照:自宅で稲を育てる「バケツ稲」

衰退する既存メディア

| | コメント(0) | トラックバック(0)
「誤読首相」の異名をも持つ麻生首相。
今月十日、皇居・宮殿で開かれた天皇、皇后両陛下の結婚五十年の祝賀行事がありました。その行事の祝辞の言葉で、繁栄を意味する「弥栄いやさか」を「いやさかえ」と言い間違えた、として各報道機関に「報道」されました。

参考:麻生首相の「いやさかえ」を "誤読" として "誤報" した報道機関メドレー

麻生首相と完全無所属
(出典:マッド・アマノのパロディータイムズ


里芋、ズッキーニ

| | コメント(0) | トラックバック(0)
今週末は、里芋とズッキーニの種植え。他に、ほうれん草と小松菜の間引きを行いました。
まずは里芋から。


市民農園で栽培されている方も、作物への被害を最小限にしようと、農薬を使用する場合も時にはあるかと思います。
しかし、少量だからといって、農薬について"知らない"では済まされないことがあると、今回の講習で学びました。
昨年の例となりますが、生産物の残留農薬検査で不合格となったものを調べた結果、市民農園利用者が使用した農薬が飛散により影響していたのです。原因が分かるまで、農家は生産物が出荷できない状態になったのです。

先日の畑での作業は種から植えた大根の間引きのみ。間引いた大根は、夜の汁物の具の足しになりました。
植えた種の成長を見てみると、ジャガイモ、種を蒔いたほうれん草、小松菜、トウモロコシも芽を出していました。
じゃがいも
(今年3月7日に植えたじゃがいも)

4月6日の記事で、朝食はパン食だと書きましたが、私はある時からマーガリンを塗って食べるのは辞めました。もう、1年余り経つでしょうか。

トランス脂肪酸という言葉を聞いたことがあるでしょうか。どの記事を見て、その危険性を知ったのか憶えてはいないのですが、マーガリンは植物性だからといって、健康的な食べ物ではないのです。
トランス脂肪酸の含有量について、規制されている国があります。


連山の推薦ブログとして掲載された『無念無想』執筆者のsilkさんは、ウィキペディアの「ベジタリアニズム」の内容から判断すると、フィッシュ・ベジタリアンなのでしょう。
私も牛肉、豚肉、牛乳は避けています(家の食事はほとんどベジタリアンで、外食を含めるとフィッシュ・ベジタリアンでしょうか)。

工業用に利用されるはずの米(米国からなどのミニマムアクセス等)が、食用に転売され問題になったいわゆる事故米の一件で、稲作にも関心を持たれた方も多いのではないでしょうか。


えだまめ、とうもろこし

| | コメント(0) | トラックバック(0)
4月4日は、枝豆とトウモロコシの種まきをしました。
まず、枝豆の種まきは下記の内容です。

<準備>
1.作付け範囲の確認(幅60cm、長さ260cmの畝を用意)
2.全体的にリン酸肥料(200cc)を撒きよく耕し、畝を整える
(枝豆は、チッソ成分必要量の30〜50%を根粒菌に依存します。チッソが多いと茎葉が茂り過ぎてしまうので注意)
関連:窒素 - 無限ループ - Yahoo!ブログ


新年度が始まりました。"なにか"をスタートするにはとても良い機会です。
読者の方で"サラリーマン"もいらっしゃるかもしれませんが、英語学習でも始めてみますか。

戦後、進駐軍からブリキ材が入手できるようになり、それで玩具を作れば「食いっぱぐれがない」と父親から玩具関連会社への就職を勧められた。英語を学び始めたのは、玩具関連企業をいくつか渡り歩き、都内の玩具卸会社で役員を務めていたころ。五十代後半にさしかかっていた。

 テレビゲーム機などゲーム機器が登場し始め、時代に遅れまいと最新のゲーム機を覚えようとしたが、変化についていけない。だんだん社内で肩身が狭くなり、「窓際族になっていた」。

 社内には玩具の小売りスペースがあり、買い物客には日本に暮らす外国人もいた。「人と違うことをしないと社内に居場所はない」と外国人の接客を買って出て、独学で英語を覚えた。英語学習はいわばサラリーマンとしての"生き残り策"だ。

引用:浅草観光ナビゲーター 外国語ガイド 加藤 正雄さん78歳:暮らし(TOKYO Web)(2009年4月1日)


なかのひと

リンク集

-->